富本銭・和同開珎の意義を読み解く:実用貨幣か、権力象徴か、その多様な解釈
古代日本において、初めて本格的な銭貨が登場した時期は、日本の経済史や社会構造を考える上で重要な論点の一つです。特に、7世紀後半から8世紀初頭にかけて見られる富本銭や和同開珎といった銭貨が、当時の社会でどのような役割を果たしていたのかについては、研究者の間でも複数の異なる解釈が存在します。これらの銭貨が単に国家の権威を示すものであったのか、それとも実際に物品交換などに使用される実用貨幣として機能していたのか。本稿では、この二つの主要な解釈とその根拠を比較し、古代日本の貨幣観に関する多様な視点をご紹介いたします。
古代銭貨の登場と主な解釈
古代日本における銭貨としては、一般的に和同開珎(708年発行)が最初期の「流通貨幣」として知られています。しかし、近年、それよりも前に「富本銭」と呼ばれる銭貨が鋳造・使用されていたことが明らかになり、注目を集めています。これらの銭貨が、当時の日本の社会や経済においてどのような位置づけにあったのかについては、大きく分けて二つの見解があります。一つは、これらの銭貨が比較的広く流通し、実用的な「貨幣」として機能していたとする見方。もう一つは、その使用は限定的であり、主に国家や支配階級の権威を示す「権力象徴」としての側面が強かったとする見方です。
解釈1:実用貨幣としての側面を重視する見解
この見解は、富本銭や和同開珎が、単なる記念品や儀礼品ではなく、実際にモノやサービスの交換、あるいは徴税や俸禄の支払いといった経済活動に使用された実用貨幣であったと捉えます。
根拠の解説
- 文献史料の記述: 『続日本紀』などの当時の文献からは、和同開珎の発行後に、朝廷が銭貨の使用を奨励し、蓄えた銭貨に応じて位階を与える「蓄銭叙位令」(711年)のような政策を出したことが読み取れます。これは、朝廷が銭貨を流通させ、それを人々が貯蓄するような経済状況を目指していたことを示唆していると考えられます。また、史料には、銭貨が物品の購入や寄付に用いられたことを示唆する記述も見られます。
- 出土状況: 近年の発掘調査により、富本銭や和同開珎は都周辺だけでなく、地方の官衙跡や有力者の居宅跡など、比較的広範囲から出土しています。特に和同開珎は、地方でも比較的多量に出土する事例があり、ある程度の地域的な広がりを持って使用されていた可能性を示しています。また、銭貨に摩耗が見られることから、ある程度の期間、人々の手によって使用された痕跡も確認されています。
- 銭貨の規格性: 和同開珎は、ある程度均一な大きさや質量で作られており、これは貨幣として流通させる上で必要な規格性を備えていたことを示唆します。
これらの根拠からは、古代の銭貨、特に和同開珎が、朝廷の強い意思によって流通が図られ、限定的ではあったとしても、ある程度の経済活動において実用貨幣として機能していたという可能性が読み取れます。富本銭についても、和同開珎に先行する銭貨として、実用を意図した試鋳銭、あるいは初期の実用貨幣であったとする見方があります。
解釈2:権力象徴・限定的使用としての側面を重視する見解
一方で、これらの銭貨が、広く一般に流通する「実用貨幣」として機能していたとは言えず、主に国家や支配者層の権威を示す象徴、あるいは特定の儀礼や公的な取引に限定的に使用されたに過ぎないとする見解もあります。
根拠の解説
- 社会構造: 当時の日本社会は、まだ稲や布といった現物経済が中心であり、物品交換や現物支給が一般的でした。広範な商品流通市場が未発達な状況で、銭貨が一般民衆の間で広く使用される基盤が乏しかったと考えられます。
- 銭貨の供給量と地域差: 発掘される銭貨の総量は、現代の貨幣経済から見れば圧倒的に少なく、当時の人口や経済活動を考えると、ごく一部の人々にしか行き渡らなかった可能性があります。また、地方での出土量が都周辺に比べて極端に少ない事例もあり、地域による銭貨利用の格差が大きかったことが推測されます。
- 蓄銭叙位令の解釈: 蓄銭叙位令などの政策は、むしろ銭貨がなかなか流通しなかったために、朝廷が無理にでも使用させようとした証拠であると捉えることもできます。政策が出されたこと自体が、銭貨が自然に経済に溶け込む状況ではなかったことを示唆している、という見方です。
- 富本銭の性格: 富本銭については、その出土状況や特徴から、当初は流通を目的とした貨幣ではなく、呪術的な意味合いや儀礼的な目的で製造されたものであったという見解も有力視されていました(近年は実用説も有力化していますが)。
これらの根拠からは、古代の銭貨が国家の権威を示す象徴としての意味合いを強く持ち、その利用は国家的な徴収・支給や、支配者層間の取引、あるいは特定の儀礼などに限定されていた可能性が読み取れます。広く一般民衆の日常的な経済活動で、物品交換に用いられるような実用貨幣としての役割は、まだ極めて限定的だったという捉え方です。
各解釈の比較検討
富本銭や和同開珎がどのような役割を果たしたのか、という問いに対する二つの主要な解釈は、同じ史料や考古学的な証拠を見ながらも、その「着眼点」と「前提」が異なります。
実用貨幣説は、文献史料に見られる朝廷の政策や、銭貨の出土状況から、銭貨が「貨幣として流通しようとしていた」「実際に一部で流通していた」という点に注目します。国家による貨幣経済導入への意欲や、それがもたらした限定的ながらも実用的な側面を評価する傾向があります。
一方、権力象徴・限定的使用説は、当時の社会構造や経済状況、銭貨の供給量や地域差といった「貨幣が流通するための基盤が未成熟であった」という点に強く注目します。文献に見られる政策も、流通促進の「成功例」としてではなく、「苦労の跡」として読み取り、銭貨の利用がごく一部に留まった側面を強調します。
なぜこのように異なる解釈が生まれるのでしょうか。それは、古代の史料が断片的であること、そして「貨幣」という概念自体が、現代のそれとは異なる性格を持っていた可能性があるからです。当時の社会で「銭」がどのように認識され、使われていたのかを完全に知ることは難しく、残されたわずかな手がかりから全体像を類推せざるを得ないため、解釈に幅が生じます。また、近年の考古学的な発見(例えば、富本銭の出土量の増加や、地方での和同開珎の新たな発見など)が、それまでの定説に影響を与え、新たな解釈を生み出すこともあります。
多様な視点を持つことの重要性
このように、古代日本の富本銭や和同開珎といった銭貨一つをとっても、「実用貨幣としてどれだけ機能したのか」という問いに対し、複数の異なる、しかしそれぞれに根拠を持つ解釈が存在します。どちらか一方だけを「真実」と断定することは難しく、両方の解釈に耳を傾け、それぞれの根拠を吟味することが重要です。
一つの史料や出来事に対する見解は、見る角度や注目する側面にによって大きく変わり得ます。多様な歴史観に触れることは、固定観念にとらわれず、より深く多角的に歴史を理解するための鍵となります。古代の銭貨の役割についても、実用と象徴、それぞれの側面がどの程度の比重で存在したのか、また時代や地域によってその比重がどう変化したのかなど、多様な視点から探求を続けることが、古代日本の社会や経済の実像に迫る上で不可欠と言えるでしょう。