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墾田永年私財法の意義を読み解く:律令制維持策か、崩壊の始まりか、その多様な評価

Tags: 日本史, 奈良時代, 律令制, 荘園, 土地制度

墾田永年私財法とは何か、その意義に関する多様な視点

743年(天平15年)に制定された墾田永年私財法は、奈良時代の日本の土地制度において非常に重要な位置を占める法令です。この法は、新たに開墾した土地の私有を永久的に認めるという内容で、それまでの公地公民制の原則を一部変更するものでした。

この墾田永年私財法が、その後の日本の歴史、特に土地制度や社会構造に大きな影響を与えたことは間違いありません。しかし、この法が制定された当時の政府の意図や、律令体制全体に与えた影響について、歴史研究においては複数の異なる解釈が存在します。この法を、逼迫した律令体制を維持するための「苦肉の策」と見る見方と、律令体制の根幹を揺るがし、後の荘園公領制への道を決定づけた「崩壊の始まり」と見る見方です。それぞれの解釈がどのような根拠に基づいているのかを見ていきましょう。

解釈1:律令体制維持のための苦肉の策としての側面

一つの解釈として、墾田永年私財法は、当時の律令国家が直面していた土地制度の困難を打開し、体制を維持・強化するために制定された施策であるという見方があります。

この解釈の根拠として挙げられるのは、当時の律令国家が抱えていた課題です。律令制の基本である班田収授法は、一定期間ごとに土地(口分田)を人民に班給し、その代わりに租税を徴収するという制度でした。しかし、人口増加に対する口分田の不足、班田収授が円滑に行われなくなっていたこと、また、自然災害などにより耕作放棄地が増加し、未開墾地が広がっていたという状況がありました。これらの状況は、律令国家の財政基盤である租税収入の減少に繋がり、体制の維持を困難にしていました。

このような状況下で、政府は荒地の開墾を奨励する必要に迫られていました。墾田永年私財法は、それまで開墾した土地の私有を一代または三代限りとしていた制限を撤廃し、永久的な私有を認めることで、人々に積極的に開墾を行わせようとする意図があったと考えられます。これにより、新たな耕地が増加し、そこからの税収(輸租田からの租)を確保することで、国家財政の立て直しを図ろうとしたという見方です。当時の史料からは、開墾面積を増やすことが強く意識されていた様子が読み取れます。この解釈では、この法は公地公民制の原則を完全に否定するものではなく、荒地開発という緊急課題に対応するための、あくまで体制内での調整策、すなわち「苦肉の策」であったと捉えられます。

解釈2:律令体制崩壊を加速させ、荘園公領制への道を開いた側面

もう一つの有力な解釈は、墾田永年私財法が、結果的に律令体制の根幹である公地公民制を揺るがし、後の荘園公領制という新たな土地制度へと移行するきっかけ、あるいはそれを決定づけた法であるという見方です。

この解釈の根拠は、法制定後に実際に起きた社会の変化に注目しています。墾田永年私財法によって開墾地の永久私有が認められた結果、土地を開発・経営する力を持つ有力な貴族や寺社が広大な土地を囲い込む動きが加速しました。彼らは豊富な労働力や資本を背景に大規模な開墾を進め、自己の私有地を拡大していきました。これは、律令制のもとで土地が国家から人民に一時的に班給されるという公地公民制の原則から大きく逸脱するものでした。

初期の永久私有地はまだ国家への納税義務(輸租田)がありましたが、時代が下るにつれて、有力者たちは様々な手段を用いてこれらの土地を国家の課税や立ち入りから免除されるように働きかけ、不輸・不入の権限を持つ荘園が形成されていきます。墾田永年私財法は、このように国家の管理が及ばない私的な土地所有を合法的に認めたことで、班田収授法の形骸化をさらに進め、公地公民制に基づく律令国家の基盤を弱体化させる結果を招いたと解釈されます。この見方では、この法は目先の財政問題を解決しようとした策であったとしても、長期的に見れば律令体制の崩壊を早め、中世的な荘園公領制という社会構造への転換を促した「崩壊の始まり」であったと評価されます。

各解釈の比較検討と多様な視点

墾田永年私財法に対するこれらの異なる解釈は、それぞれが法を見る際の着眼点や、歴史の流れをどう捉えるかによって生じています。

前者の「苦肉の策」とする解釈は、主に法が制定された当時の政府の意図や、直面していた具体的な課題(土地不足、財政難)への対応という側面に焦点を当てています。当時の史料に記された法の目的や、律令体制を維持しようとする姿勢に重きを置いていると言えるでしょう。

一方、後者の「崩壊の始まり」とする解釈は、法が制定された後の社会構造の長期的な変化、特に土地の私有化の進行と荘園の成立という結果に重点を置いています。この解釈は、墾田永年私財法を単独の法として見るのではなく、その後の荘園公領制へと至る歴史的な流れの中に位置づけて評価していると言えます。近年の研究では、この法が単なる応急処置ではなく、律令制の構造的な矛盾が明らかになる中で、土地制度の転換を促す一定の意図や必然性があったとする見解も有力視されています。

このように、墾田永年私財法という一つの歴史上の法令を見ても、当時の状況への対応策という側面と、その後の大きな歴史的変化の起点となった側面という、異なる、あるいは時に相反するように見える複数の意義が見出されます。どちらか一方だけを「真実」と断定することは難しく、両方の側面があったと考えるのが自然かもしれません。重要なのは、一つの史料や法令が持つ意味や影響が、それをどの視点から、どの時間軸で評価するかによって多様に解釈されうるということです。

まとめ:多様な歴史観を持つことの意義

墾田永年私財法の例に見られるように、歴史上の出来事や法令は、常に多様な視点から解釈される可能性があります。法が制定された直接的な理由や当時の政府の意図、そしてその法が長期的に社会構造に与えた影響など、様々な側面を考慮することで、より深く多角的な理解が可能になります。

一つの史料や出来事に対して複数の解釈が存在することを知り、それぞれの根拠を比較検討することは、歴史を学ぶ上で非常に有益です。これにより、特定の情報源や一つの見方に偏ることなく、自らの視点を豊かにし、歴史の複雑さや奥深さを感じ取ることができるでしょう。墾田永年私財法もまた、当時の人々が直面した現実への対応と、その後の時代の流れを生み出す要因との両面を持っていたと考えることで、より立体的な歴史像が見えてくるのかもしれません。