小野妹子の遣隋使における外交成果をどう読み解くか?:対等な外交か、冊封体制内の使節か、その多様な解釈
遣隋使、そして小野妹子の外交成果を巡る多様な視点
飛鳥時代の初期、倭国が強大な王朝である隋に遣隋使を送ったことは、日本が国際社会の一員として、また東アジアにおける一国としての地位を確立しようとした重要な出来事と位置づけられています。特に、607年に小野妹子らが送られた遣隋使は、『日本書紀』や『隋書』といった史料に記述があり、しばしば歴史の教科書でも取り上げられます。
しかし、この遣隋使、とりわけその外交的な成果や、倭国(日本)が隋に対してどのような姿勢で臨んだのかについては、一つの見方だけではなく、史料の解釈や当時の国際情勢への着眼点によって、複数の異なる解釈が存在します。今回は、小野妹子の遣隋使が示した外交成果について、「対等な関係を目指した試み」と「冊封体制内でのやり取り」という二つの代表的な見方を比較検証し、その根拠を探ってまいります。
解釈1:対等な関係を目指した試みと捉える見方
一つ目の見方は、小野妹子らが携行した国書に注目し、倭国が隋と対等な関係を築こうとした、あるいは少なくともその意欲を示したと解釈するものです。
この解釈の主な根拠となるのは、『日本書紀』推古天皇十五年(607年)条に記された国書の文言です。そこには、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。)」という記述があります。
当時の東アジアにおける国際秩序は、中国皇帝を中心とした冊封体制が基本でした。これは、周辺国の君主が中国皇帝に臣従し、朝貢を行うことで、その地位を認められるというものです。このような状況下において、「日出ずる処の天子」という表現を用いることは、自国の君主を中国皇帝(「日没する処の天子」)と同等の「天子」と位置づけようとする強い意識の表れと解釈することができます。これは、中国皇帝を唯一の「天子」とする中華思想、そして冊封体制の原則から見れば、異例かつ挑発的とも受け取られかねない表現であったと考えられます。
したがって、この国書の文言を重視する立場からは、小野妹子の遣隋使は、単なる朝貢ではなく、隋の権威を認めつつも、倭国としての自立性や主権を示すとともに、対等な外交関係の構築を模索する画期的な試みであったと評価されることがあります。当時の推古天皇や摂政・聖徳太子の国際感覚の鋭さを示すものとして捉えられることもあります。
解釈2:冊封体制内でのやり取りと捉える見方
もう一つの見方は、小野妹子の遣隋使を、当時の東アジアにおける一般的な外交形式であった冊封体制の枠組み内でのやり取りとして捉えるものです。
この解釈の主な根拠となるのは、『隋書』倭国伝における記述です。『隋書』によれば、倭王(またはその使者)が「天を以て兄とし、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて聽訟し、日の既に没する時、便ち跏趺して坐す(天を兄とし、日を弟とする。天がまだ明けない時に出て裁判を行い、日が既に没した時に座る)」と煬帝に述べたところ、煬帝は「此れ大いに義無きなり(これは大いに道義に反する)」と述べた、とされています。また、607年の倭国からの国書を受け取った煬帝が「蠻夷の書、無礼なる者有り。復た以て聞する勿かれ(蛮夷の書、無礼なる者有り。また以て聞する勿かれ。)」と激怒し、担当官に二度とこのような無礼な書を受け取らないよう命じた、とも記されています。
『隋書』の記述を重視する立場からは、『日本書紀』にあるような「日出ずる処の天子」という表現や、自国君主を隋皇帝と同等と位置づけるような態度は、隋側からは「無礼」と見なされており、決して対等な相手として認識されていなかったことが読み取れます。また、『隋書』では、倭国の使節はあくまで「朝貢」に来た者として扱われています。
このため、この解釈からは、小野妹子の遣隋使は、当時の東アジアにおける隋の圧倒的な国力を前に、倭国が冊封体制から完全に脱却することは困難であり、依然として朝貢国の立場から外交を行わざるを得なかった状況を示していると捉えることができます。あるいは、『日本書紀』にある国書の文言が、隋の皇帝に正しく理解されなかったか、あるいは外交儀礼上の失敗であったと解釈する余地もあります。当時の倭国が、中国の複雑な外交儀礼や冊封体制の機微を完全に理解していなかった可能性も指摘されることがあります。
異なる解釈が生まれる背景:史料の視点と当時の国際環境
このように、小野妹子の遣隋使における外交成果については、「対等な関係を目指した試み」と「冊封体制内のやり取り」という、一見相反するような二つの解釈が存在します。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか。
その大きな要因の一つは、参照する史料の視点の違いにあります。「対等な外交」の根拠とされる『日本書紀』は、日本の視点から編纂された正史です。当然、日本の権威や主体性を強調する意図が含まれている可能性があります。一方、「冊封体制内」の根拠とされる『隋書』は、中国側の視点から編纂された歴史書であり、周辺国を朝貢国として位置づける中華思想に基づいた記述が見られます。同じ出来事であっても、それぞれの国の立場や編纂目的によって、記録の仕方や強調される点が異なるのは自然なことです。
また、当時の東アジアにおける国際環境をどう捉えるかも、解釈に影響を与えます。当時の隋は、高句麗遠征を繰り返すなど、東アジア全体に強い影響力を持つ超大国でした。そのような状況下で、倭国がどの程度強気な外交を展開できたのか、あるいはする必要があったのか、といった点も考慮に入れる必要があります。朝鮮半島の情勢も複雑であり、高句麗、百済、新羅といった国々も隋との関係構築に努めており、倭国もこれらの国々との関係の中で、隋との外交を位置づける必要がありました。
さらに、両国の国書ややり取りが、文化や言語、外交儀礼の違いによって、必ずしも正確に伝わったり理解されたりしなかった可能性も考慮すべき点です。
まとめ:多様な史料から歴史事象を読み解くことの意義
小野妹子の遣隋使を巡るこれらの異なる解釈は、一つの歴史上の出来事であっても、参照する史料やその史料が持つ視点、さらには当時の背景状況への着眼点によって、多様な見方が可能となることを改めて示しています。
『日本書紀』の記述からは、当時の倭国が自国を「日出ずる処の天子」の国として、国際社会における主体性を意識し始めていた可能性を読み取ることができます。一方で、『隋書』の記述からは、隋が周辺国を冊封体制下の朝貢国としてどのように認識していたか、そして倭国の外交がその枠組みの中でどのように受け止められていたかを知る手がかりが得られます。
どちらか一方の解釈だけを絶対視するのではなく、複数の史料や多様な視点から歴史事象にアプローチすることで、より立体的に当時の状況や人々の意図を理解する手がかりを得られるのではないでしょうか。一つの史料や出来事に対する解釈は一つではない、という視点を常に意識することは、多様な歴史観を育む上で重要な姿勢と言えるでしょう。