視点が変われば歴史も変わる

荘園制の実像に迫る:『律令支配の崩壊』か『新たな土地支配構造』か、その多様な解釈

Tags: 荘園, 土地制度, 律令制, 中世, 日本史

日本の荘園、その多様な視点

日本の古代末期から中世にかけて、社会経済の基盤となった「荘園」。教科書などでは、律令国家による公地公民制が崩壊し、土地の私有が進む中で生まれたものと説明されることが多いでしょう。しかし、この荘園という存在が日本の歴史においてどのような意義を持っていたのか、またその性格をどう捉えるべきなのかについては、様々な解釈が存在します。

一つの見方としては、荘園は律令国家による土地・人民支配が弱まり、崩壊していく過程で生まれたもの、という側面が強調されます。一方で、荘園は単に国家支配からの逸脱や崩壊を示すだけでなく、その後の武家政権の基盤ともなる、新たな土地支配の構造を作り上げていったという側面も指摘されています。今回は、この荘園制度について、異なる二つの解釈とその根拠に焦点を当て、多様な視点から考えてみたいと思います。

解釈1:律令支配の崩壊を示す存在としての荘園

まず、荘園を律令国家による公地公民制や租税制度からの逸脱、ひいては律令支配の崩壊を示す現象として捉える見方があります。

この解釈の根拠となるのは、荘園が国家から「不輸(租税免除)」や「不入(国司や国衙役人の立ち入り、検田・収公などを拒否する権利)」といった特権を獲得していった過程です。当初、土地の私有を認めた墾田永年私財法(743年)によって開墾地は私有化されましたが、律令国家はこうした私有地からも税を徴収しようとしました。これに対し、有力な貴族や大寺社は、自らの威光や権力を用いて、国司の支配が及ばない土地を広げていきました。具体的には、自らの土地を朝廷の有力者や寺社に寄進し、形式的にその支配下に入ることで、国家からの租税や役務を免れるという手法(寄進地系荘園)が広く行われるようになります。

当時の史料からは、国司が荘園の存在を無視して検田を行おうとしたり、租税を徴収しようとしたりする動きに対し、荘園側がこれに抵抗し、朝廷に訴え出るような事例が多く見られます。これらの記録は、荘園が律令国家の管轄から逃れ、自律的な経済・社会単位として確立していく過程を示しており、律令国家による中央集権的な支配体制が緩み、機能不全に陥っていく様子を読み取ることができます。この視点からは、荘園は国家権威の低下と、公地公民制の原則が形骸化していく象徴として捉えられると言えるでしょう。

解釈2:新たな土地支配構造、中世社会の基盤としての荘園

もう一つの解釈は、荘園を単なる律令支配の崩壊ではなく、その後に来る中世社会の基盤ともなる、新たな土地支配構造の構築として捉える見方です。

この解釈では、荘園が獲得した不輸・不入の特権は、国家による公的な支配からの逃避であると同時に、荘園領主(本家、領家など)による私的な土地支配、さらには荘園内の農民(荘民)に対する支配を確立する過程であると見なします。荘園領主は、荘園内の開発を主導したり、荘園の管理を行う荘官や下司を任命したりするなど、土地とそこに住む人々に対する事実上の支配権を行使しました。また、荘園によっては独自の法(荘園法)が定められ、内部の秩序維持が図られることもありました。

中世に入ると、荘園は公的な土地である公領と並存し、「荘園公領制」という体制が成立します。これは、律令国家が完全に消滅したのではなく、公的な支配の枠組みと荘園という私的な支配単位が複雑に組み合わさった、多重的な支配構造であったと理解されています。また、荘官や下司として荘園の管理に関わった武士たちが、次第に力を蓄え、地頭として荘園への影響力を強めていく過程は、武家政権の成立と密接に関わっています。この視点からは、荘園は律令制という過去のシステムが崩壊する様を示すだけでなく、武士による新たな支配体制や、中世の封建的な社会構造が形成されていく上での重要な基盤であったと解釈する余地があるのです。

各解釈の比較と、なぜ違いが生じるのか

これらの二つの解釈は、同じ「荘園」という歴史上の現象を扱っていますが、その焦点が異なります。

「律令支配の崩壊」という解釈は、律令国家が理想としていた中央集権的な支配体制や公地公民制という原則から見て、荘園がいかに逸脱し、国家の権威が低下していったかという点に注目しています。これは、律令国家という枠組みを基準として荘園を評価する視点と言えるでしょう。当時の国家財政や人民支配の状況を分析する際に、この側面は重要となります。

一方、「新たな土地支配構造」という解釈は、荘園が実際に社会経済の中でどのような役割を果たしたのか、特にその後の鎌倉幕府などの武家政権や中世社会の成立にどのように繋がっていったのかという点に重きを置いています。これは、荘園を単なる「崩壊」ではなく、来るべき社会構造の変化、あるいは律令国家とは異なる形の支配体制の萌芽として捉える視点です。中世社会の権力構造や経済システムを理解する上で、この側面は不可欠となります。

なぜこのような違いが生じるのでしょうか。それは、歴史上の出来事や制度を評価する際に、研究者がどの時代の、どのような仕組みや価値観を基準とするか、また、どの側面や結果を重視するかによって視点が変わるためと考えられます。荘園は、その発生から発展、そして解体に至るまで、時代の変化と共にその性格や役割を変化させていきました。古代末期の律令国家の動揺期、荘園公領制が確立する中世前期、武士による支配が強まる中世後期など、どの時期の荘園に焦点を当てるかによっても、その捉え方は変わってきます。また、国家の側から見るか、荘園領主の側から見るか、あるいは荘民の側から見るかといった立場の違いも、解釈に影響を与える要因となりえます。

多様な視点から歴史を理解することの意義

このように、荘園という一つのテーマを取り上げるだけでも、複数の異なる解釈が存在し、それぞれが当時の史料や歴史の流れの特定の側面に根拠を置いています。どちらか一方だけを「真実」と見なすのではなく、これらの多様な解釈を知り、それぞれの根拠を比較検討することで、私たちは荘園制度という複雑な現象をより多角的に理解することができます。

歴史上の出来事や制度は、単一の理由や結果だけで説明できるものではなく、様々な要因が複雑に絡み合って生じています。一つの史料や出来事に対しても、読み取る視点が変われば、そこから見えてくる姿も変わります。「視点が変われば歴史も変わる」とは、まさにこのことです。多様な歴史観に触れ、自ら根拠を検証することで、歴史への理解は一層深まるものと考えられます。今後の歴史学習においても、一つの見方に囚われず、様々な角度から問いを立てていく姿勢が大切であると言えるでしょう。