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大宝律令の実像に迫る:『中国律令の模倣』か『日本独自への適応』か、その多様な解釈

Tags: 日本史, 古代史, 律令制, 大宝律令, 史料解釈

はじめに:大宝律令とその意義を巡る問い

701年に制定された大宝律令は、日本の律令国家体制を確立した画期的な法典として知られています。天皇を中心とする中央集権体制、班田収授法に代表される土地・税制、官僚制度などが整備され、その後の日本政治の基盤となりました。しかし、この大宝律令がどのような性格を持っていたのか、その編纂の目的や意義について、歴史家の間では複数の異なる解釈が存在します。

大宝律令は、当時の東アジアにおける先進的な法体系であった中国の律令制度を強く意識して作られたと考えられていますが、それがどの程度「模倣」であったのか、あるいは日本の実情に合わせてどの程度「独自」の要素を取り入れたものだったのか、という点について、視点によって見解が分かれます。ここでは、大宝律令の性格を巡る異なる解釈とその根拠について、比較検証してまいります。

解釈1:大宝律令は中国律令の本格的な模倣であったとする見解

一つの見解として、大宝律令は当時の東アジアで普遍的なモデルであった中国(特に唐)の律令制度を、可能な限り忠実に導入・模倣しようとしたものである、という捉え方があります。この見方は、律令の形式や条文の内容に唐の律令との類似性が非常に多いことに着目します。

この解釈の根拠としては、まず律令の構成そのものが唐の律令を強く意識している点が挙げられます。『養老律令』(大宝律令の改訂版と考えられている)の構成は、唐の律令と多くの共通点が見られます。また、個別の条文についても、唐の律令からの借用や影響が指摘されており、例えば官僚制度や刑罰に関する規定には、その色合いが濃く出ています。

当時の東アジアでは、中国の律令国家体制は先進的な統治システムとして認識されており、周辺諸国がこれを手本として国制を整える傾向がありました。日本もまた、唐の国力を背景とした東アジアの国際秩序の中で、国家としての体裁を整え、対外的な地位を高めるために、唐の律令を積極的に摂取する必要があったという背景も、この解釈を補強する要素となります。粟田真人のような遣唐使が唐の制度を学び、編纂に関わったことも、模倣説の根拠の一つと考えられています。

解釈2:大宝律令は日本独自の社会・政治状況に適応させたものであったとする見解

もう一つの見解として、大宝律令は中国律令を参考にしつつも、日本の固有の社会構造や政治的伝統に合わせて大幅な修正や取捨選択がなされたものであり、むしろ日本独自の要素が多く含まれている、という捉え方があります。この見方は、律令の条文の中に唐の律令には見られない規定や、唐の規定が日本の実情に合わせて変更されている点に注目します。

この解釈の根拠としては、いくつかの具体的な律令条文が挙げられます。例えば、班田収授法は唐の均田制を参考にしたものですが、日本では永年私財を禁じつつも口分田の班給に限定され、名田経営や墾田永年私財法へと変質していくなど、実際の土地制度や経営形態との乖離が見られました。また、日本の氏姓制度や部民制など、中国にはない社会構造への対応も必要でした。さらに、刑罰における天皇による恩赦の規定や、神祇に関する規定が律令の中に盛り込まれている点は、中国律令には見られない日本独自の要素と考えられます。特に神祇令は、日本の伝統的な信仰や祭祀を国家体制の中に位置づけるものであり、中国律令には対応する規定がありません。

この見解からは、当時の日本の為政者たちが、単なる模倣に終わるのではなく、中国の進んだ法体系を導入しつつも、日本の国情に合わせて取捨選択や修正を行い、実効性のある法典を編纂しようと意図した姿勢が読み取れます。

異なる解釈が生まれる背景:着眼点と史料解釈の違い

大宝律令を巡るこれらの異なる解釈は、主にどのような点に注目するか、そしてどのような史料を重視するかによって生じると考えられます。

「中国律令の模倣」という側面を重視する解釈は、主に律令の形式や理念、個別の条文の共通性に着眼しています。律令条文の表現や構成を唐の律令と比較し、その類似点を丹念に検証することで、編纂の基盤に唐の律令があったことを強調します。当時の国際情勢や日本の対外的な立場も考慮に入れることが多いでしょう。

一方、「日本独自への適応」という側面を重視する解釈は、主に律令の内容や運用における修正点、唐の律令にない独自の規定に着眼しています。律令本文に加え、『日本書紀』や『続日本紀』といった当時の歴史書、さらには木簡などの出土史料に見られる実際の法運用や社会状況に関する記述を根拠として、律令が日本の実情とどのように関わっていたか、あるいは乖離していたかを分析します。氏姓制度や信仰といった日本の固有の要素が律令にどのように組み込まれたかに注目することもあります。

どちらの解釈も、大宝律令という一つの史料(法典)やそれを巡る当時の記録に基づいていますが、律令のどの側面を「本質」と捉えるか、あるいはどのような史料を優先的に読み解くかによって、評価が分かれるのです。模倣説は律令の「規範」としての性格に、独自適応説は律令の「実態」や「日本社会との関わり」に重きを置いているとも言えるでしょう。

まとめ:多様な視点から大宝律令の意義を考える

大宝律令は、単に中国律令を写したものでも、完全に日本独自のものでもなく、当時の日本の為政者たちが、中国律令という先進的なツールを日本に導入するにあたり、様々な調整や選択を行った結果として成立したものであると考えられます。

「中国律令の模倣」という側面からは、当時の東アジアにおける日本の国際的な立ち位置や、先進的な国家統治システムを取り入れようとする強い意志が読み取れます。「日本独自への適応」という側面からは、日本の伝統的な社会構造や信仰、あるいは現実の経済状況など、固有の要素を国家制度の中に組み込もうとした努力が見えてきます。

大宝律令という一つの歴史的対象も、どのような視点から、どのような根拠に基づいて読み解くかによって、その性格や意義の捉え方が異なってくるのです。多様な解釈を知り、それぞれの根拠を比較検討することで、私たちは単一の歴史像に留まらず、より多角的で奥行きのある古代日本の姿を理解する手がかりを得ることができます。歴史上の出来事や史料を考察する際には、常に複数の視点が存在する可能性を意識することが、より豊かな歴史理解につながるのではないでしょうか。