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徳川綱吉の実像に迫る:生類憐みの令の君主か、文治政治の推進者か、多様な評価

Tags: 徳川綱吉, 江戸時代, 文治政治, 生類憐みの令, 歴史評価

徳川綱吉の治世、多様な視点から捉える

江戸幕府五代将軍、徳川綱吉の治世(1680年〜1709年、貞享・元禄期)は、歴史上様々な評価がなされてきました。特に「生類憐みの令」は広く知られており、綱吉に対して特異な、あるいは批判的なイメージを持つ方も少なくないでしょう。しかし、その治世は一つの側面だけで語れるものではなく、近年の研究などによって多様な見方が提示されています。

本稿では、徳川綱吉の治世について提示されている複数の解釈を取り上げ、それぞれの根拠を比較することで、多角的な視点からその実像に迫ることを試みます。

「生類憐みの令」に象徴される「悪政」・「犬公方」という解釈

徳川綱吉の治世に対する伝統的な、あるいは一般的なイメージとして、極端な「生類憐みの令」を公布し、動物、特に犬を手厚く保護する一方で、人命を軽んじた「悪政」を行った、といったものが挙げられます。そこから「犬公方」という渾名が生まれ、綱吉の治世は批判的に語られることが多くあります。

この解釈の根拠としては、やはり「生類憐みの令」とその関連法令の内容が主要なものとなります。当時の触書からは、捨犬の保護施設の設置、生類に対する殺傷の禁止、病気や負傷した生類の手当といった規定が読み取れます。また、これらの法令に違反した者への処罰が厳格に行われたことも記録に残っています。例えば、犬を傷つけた者が流罪になったり、飼育を怠った者が処罰されたりした例が伝えられています。こうした法令の異例な厳格さや、犬に将軍の駕籠を避けるよう指示するようなエピソードが広く伝わったことが、「人よりも犬を優先する奇妙な将軍」というイメージを形成したと考えられます。

さらに、綱吉の死後、次の将軍家宣に仕えた儒学者・政治家である新井白石の歴史観も、この批判的な評価を広める要因の一つとなりました。白石は自著『折たく柴の記』などで綱吉の治世を厳しく批判しており、特に生類憐みの令を「天下の悪法」として断じています。後世、幕府によって編纂された歴史書である『徳川実紀』も、白石の史観の影響を受けている部分があるとされ、これらの史料を通して綱吉の批判的な評価が広く定着していった側面があります。

文治政治の推進者・安定期を築いた将軍という解釈

一方で、徳川綱吉の治世を、武力による支配(武断政治)から学問や儀礼を重んじる支配(文治政治)への転換を本格的に進めた時代として評価する見方もあります。この解釈では、生類憐みの令を単純な悪法とせず、当時の社会背景や綱吉の政治思想と関連付けて理解しようとします。

この解釈の根拠となるのは、まず儒学の奨励です。綱吉は林家に綱島御殿(後の湯島聖堂)を与え、自身も度々そこで儒学の講義を受け、大名や旗本にも奨励しました。これは、儒教的な倫理観や秩序観に基づく安定した国家統治を目指す、文治政治への明確な志向を示すものと考えられます。また、綱吉は自ら学者肌であり、学問を尊重する姿勢を見せました。

さらに、綱吉は幕府機構の整備にも力を入れました。有能な側近として柳沢吉保を登用し、将軍権力の強化と幕政の安定を図りました。大名統制においても、末期養子の禁緩和など一部に見直しを行う一方、改易なども行われ、緊張感のある関係は維持されました。将軍の代替わりが比較的スムーズに行われ、大きな内乱もなく幕藩体制が安定期を迎えたことは、綱吉の治世における一つの成果として捉えることができます。

「生類憐みの令」についても、この文治政治・儒教思想との関連で解釈する試みがあります。動物への慈悲の心や生命尊重は仏教や儒教にも通じる思想であり、綱吉が単なる個人的な嗜好からではなく、倫理観に基づいた社会秩序の構築を目指した結果である、あるいは社会の混乱(浪人の増加など)に対する秩序回復の試みであった、といった見方も提示されています。当時の記録からは、単に犬だけでなく、牛馬や鷹などの生類全般、さらには捨て子など人間にも対象が広がっていたことが読み取れる場合もあり、その複雑性が指摘されています。また、元禄文化の隆盛は、この安定した時代背景なくしては考えられないとされ、綱吉の治世が文化発展を支えた側面も評価されます。

なぜ評価が分かれるのか:史料解釈と着眼点の違い

徳川綱吉に対する評価が「悪政」と「文治政治の推進」の間で大きく分かれるのは、主に史料の解釈と、治世におけるどの側面に焦点を当てるかの違いによるものと考えられます。

伝統的な批判的解釈は、「生類憐みの令」という極めて特徴的で異例な政策に強く影響されています。この法令の表面的な内容や、それを巡るエピソード、そして新井白石のような後世の有力者による厳しい批判が、綱吉のイメージを決定づける上で大きな役割を果たしました。特定の法令の極端さや、それに起因すると思われる社会の混乱に焦点を当てることで、「悪政」という評価が導き出されるのです。

一方、文治政治を重視する解釈は、綱吉の治世全体をより広く捉えようとします。儒学奨励、幕府機構の安定化、主要な政策(生類憐みの令を含む)の背景にある思想や目的、そして元禄文化といった他の側面にも目を向けます。この視点からは、「生類憐みの令」も、単なる悪法ではなく、当時の倫理観や社会状況の中で発せられた複雑な意味合いを持つ法令として位置づけ直されます。将軍の個人的な資質だけでなく、幕藩体制が成熟期に入り、求められる将軍像が武断から文治へと変化していく時代の流れの中で、綱吉の役割を評価しようとする視点とも言えます。

どちらの解釈も、それぞれ根拠となる史料や当時の状況に依拠しています。しかし、どの史料を重視するか、また、治世のどの側面を最も重要とみなすかによって、評価は大きく異なってくるのです。

まとめ:多角的な視点を持つことの重要性

徳川綱吉の治世は、「生類憐みの令」という強烈な印象を与える政策があったため、一面的に捉えられがちです。しかし、本稿で見たように、その治世は文治政治の推進や幕府機構の安定化といった別の側面も持ち合わせていました。

特定の史料や出来事のみに囚われず、当時の社会状況、他の政策との関連性、後世の歴史観の影響なども含めて多角的に検討することで、綱吉という人物やその時代に対する理解はより深まります。一つの事象に対する解釈が一つではないことを認識し、常に異なる視点から歴史を見つめ直す姿勢は、歴史学習において非常に重要であると言えるでしょう。徳川綱吉の治世を巡る多様な評価もまた、歴史の複雑さと面白さを示唆しているのではないでしょうか。