倭の五王の正体に迫る:中国史書に見る五人の王と日本側史料の比定、諸説を比較検証
倭の五王の正体に迫る:中国史書に見る五人の王と日本側史料の比定、諸説を比較検証
歴史を紐解く際には、一つの情報源だけでなく、複数の史料を比較検討することが重要です。同じ時代や出来事について記された記録であっても、記された場所や目的によって、その内容や焦点を当てる視点が異なることがあるからです。今回は、このような史料間の比較から多様な解釈が生まれる例として、「倭の五王」を取り上げ、中国の史書に記された彼らと、日本の史書に見られる天皇との比定について、複数の見解とその根拠を比較検証します。
「倭の五王」とは、5世紀に中国の王朝(宋、斉、梁など)に朝貢し、爵号や官職を授けられた倭国の五人の王、すなわち讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)のことです。彼らの活動は主に中国の正史である『宋書』倭国伝などに記されており、当時の倭国の政治状況や対外関係を知る上で貴重な史料となっています。しかし、これらの中国史書に記された王たちが、日本の史書である『日本書紀』などに記された歴代天皇のうち、いったい誰にあたるのか、その比定については複数の見解が存在しています。
中国史書に見る「倭の五王」と有力な比定説:武=雄略天皇説
まず、最も有力視され、比較的多くの研究者によって支持されているのが、「武(ぶ)」を『日本書紀』に記される「雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)」に比定する見解です。
この見解の根拠となるのは、主に『宋書』倭国伝に記された武の記述です。武は、自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と称し、宋に爵号と官職の授与を求めています。この広範な地域を支配下に置こうとする意志を示す称号や、宋から安東大将軍に任じられたという記録は、当時の東アジア情勢における倭国のプレゼンスの大きさを示唆しています。
一方、『日本書紀』において雄略天皇の治世は、国内の支配体制の強化や朝鮮半島諸国との関わりについて多くの記述が見られます。例えば、新羅への出兵を計画したり、百済との関係を深めたりした記録があります。中国史書に記された武の活動時期や、百済王から将軍号を要求されるなど朝鮮半島での活動を示唆する内容が、『日本書紀』の雄略天皇の記述と年代的にも比較的よく一致し、またその強大な王権のイメージが重なることから、武=雄略天皇という比定が有力視されているのです。さらに、稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土鉄刀銘に記された「ワカタケル大王」を雄略天皇にあてる見解も一般的であり、「ワカタケル」の音と「武」の音が近いことも、この比定を補強する傍証の一つとされています。
他の四王の比定に見る多様な見解
武以外の四人の王、すなわち讃、珍、済、興については、武ほど比定が定まっておらず、複数の見解が提唱されています。これは、中国史書と日本史書の記述の間に、年代や系譜関係、あるいは名前の音写など、様々な点で解釈の余地が存在するためです。
例えば、「讃(さん)」については、『日本書紀』の応神天皇(おうじんてんのう)に比定する見解と、仁徳天皇(にんとくてんのう)に比定する見解があります。応神天皇説の根拠としては、中国史書の記録から推定される讃の活動時期が応神天皇の治世に比較的近いことなどが挙げられます。一方、仁徳天皇説は、讃と次の珍が兄弟とされる系譜関係に着目し、仁徳天皇とその兄弟との関係から比定を試みるものです。
「珍(ちん)」については、反正天皇(はんぜいてんのう)説や仁徳天皇説、あるいは珍は仁徳天皇の弟で反正天皇の父にあたる人物(允恭天皇に比定されることが多い)とする説などがあります。これらの比定は、中国史書に記された讃と珍が兄弟であるという記述や、それぞれの活動時期の推定に基づいています。しかし、中国史書と『日本書紀』の間で年代や系譜関係にずれが見られることが、比定を難しくしています。
「済(せい)」については、允恭天皇(いんぎょうてんのう)に比定する見解が有力ですが、仁徳天皇に比定する見解も存在します。允恭天皇説の根拠は、中国史書における済の活動時期が允恭天皇の治世と重なることや、済が武の祖父にあたるという系譜関係が、『日本書紀』における允恭天皇と雄略天皇の関係と一致することなどです。
「興(こう)」については、安康天皇(あんこうてんのう)に比定する見解が一般的です。中国史書における興の活動時期や、済の子、武の兄という系譜関係が、『日本書紀』における安康天皇の立場と一致することが主な根拠となります。
なぜ比定が多様なのか?史料間の比較と解釈の難しさ
このように、倭の五王のうち武以外の王について複数の比定説が存在するのは、いくつかの要因が複合しているためです。
まず、中国史書と日本史書とでは、記されている年代表記や出来事の捉え方に違いがある点が挙げられます。中国史書は朝貢記録を中心としているのに対し、『日本書紀』は国内の出来事や天皇の事績を中心に記しており、史書編纂の目的や視点が異なります。また、当時の日本の年代表記や歴代天皇の治世の長さが正確に中国の暦と対応するのか、研究者の間でも見解が分かれることがあります。
次に、中国史書に記された倭王の名前は、日本語の名前を漢字で音写したものであると考えられています。漢字の音写にはいくつかのパターンが考えられるため、元の日本語の名前を正確に推定することが難しい場合があります。例えば、「讃」「珍」「済」「興」「武」といった漢字の音が、それぞれ『日本書紀』に見える「応神」「仁徳」「反正」「允恭」「安康」「雄略」といった名前や、当時の大王(おおきみ)の称号(例えばワカタケル)のどの部分と対応するのか、唯一の正解があるわけではありません。
これらの要因が絡み合うことで、同じ中国史書の記述を見ても、どの天皇に比定するのが最も妥当かについて、研究者の間で意見が分かれ、多様な解釈が生まれているのです。ある研究者は年代の一致を重視し、別の研究者は名前の音写の可能性を重視するなど、着眼点によって異なる結論に至ることがあります。
多様な視点から歴史を理解することの重要性
倭の五王の比定を巡る議論は、一つの史料や出来事に対しても、複数の解釈や見方が存在しうることを示しています。特に古代史においては、現代に伝わる史料が限られていたり、記述が簡潔であったりするため、その解釈には幅が生まれることが少なくありません。
今回見たように、中国史書という一つの史料から読み取れる情報と、『日本書紀』という別の史料から読み取れる情報を突き合わせることで、新たな疑問が生まれたり、従来の理解が揺らいだりすることがあります。そして、異なる史料の記述を整合的に理解しようとする過程で、様々な比定説や解釈が生まれてくるのです。
歴史を学ぶ上で、このような多様な見解が存在することを認識し、それぞれの解釈がどのような根拠に基づいているのかを比較検討することは、非常に有益です。特定の史料や特定の研究者の見解だけにとらわれるのではなく、多角的な視点から情報を集め、それぞれの根拠の妥当性を吟味することで、より深く、そして立体的に歴史を理解することができるでしょう。一つの「正解」を求めるだけでなく、「なぜこのように多様な見解が生まれるのか」という問いに向き合う姿勢が、歴史の面白さをさらに広げてくれるはずです。